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外に立って戸をたたくキリスト

 投稿者:VM  投稿日:2011年12月18日(日)02時32分51秒
  外に立って戸をたたくキリスト
creato da P.Itonaga ? posted at 10/12/2011 16:04 Ultima modifica 12/12/2011 09:47

イギリスのある大学に、戸口に立って戸をたたくキリストの絵が掲げられ--ているという話を、だいぶ前だが、何かで読んだ記憶がある。そういえば、そんな図柄の御絵もあった。待降節に当たって、そんな絵の話が思い出された。

話はこうだ。絵画ご披露の日、一人の人がこの絵を見て、ドアーに取っ手がないことに気づいた。そこで絵師に向かい、「ドアーに取っ手を書くのをお忘れになりましたね」と言うと、絵師は答えて、「忘れたのではありません。わざと取っ手を書かなかったのです。なぜなら、このドアーは人の心を表しています。人の心は本人が内側から開けなければ、誰も、たとえ神様でも、外側から開けることはできないのです」と言ったという。

なるほど、人の心には外から開ける取っ手はないとはよく言ったものだ。人の心は本人が内から開けなければ開けられないとは、人間が自由な主体として造られていう以上、当然なことである。神様も人間の創造者として誰よりも人間の自由を尊重される。だから、キリストも神の愛の具現者ではあるけれども、敢えて人の心をこじ開けられることはない。従って、本人が心を開かない限り、キリストの救いは実現しないということになる。

ところで、この絵の話は、どうやら聖書の言葉に由来するようである。聖書の最後の書、すなわち『ヨハネの黙示録』に次のような個所がある。「わたしは戸口に立ってたたいている。もし、だれかがわたしの声を聞いて戸を開くならば、わたしは彼のもとに入ってともに食事をし、その人もまたわたしとともに食事をする」(黙示録3,20)。

外に立って戸をたたくのは、人となった神の子イエス・キリストである。人間イエスは人間になった神の子、ペトロが、「あなたは生ける神の子、メシアです」と告白した通りで、イエスもこれを承認された(マタイ16,16-17)。またヨハネは、その福音書の冒頭で、「み言葉は人となり、われわれのうちに宿った」(ヨハネ1,14)と証言した。教会はこの出来事を「受肉の神秘」(以前は托身の玄義と訳された)と呼んでいるが、受肉の神秘の本質は、父なる神が人類救済のために御子(神の言葉)をこの世に派遣された神の愛の神秘である。主ご自身、「神はこの独り子を与えるほど、この世を愛した。それは、御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3,16)と言われた。

とすれば、キリスト教は徹底して神のイニシアチブであることが明らかとなる。このことを福者ヨハネ・パウロ2世は説明して言われる。「他の宗教は人間の側からの神の探求を一貫して語りますが、キリスト教の出発点はみ言葉の受肉です。それは、単に神を求めている人間の出来事ではなく、自らを人間に明かし、神に到達できる道を人間に示すための、人となった神の出来事なのです」(使徒的書簡『紀元2000年の到来』6)。この神の愛のイニシアチブこそ、主の来臨を待望するわたしたちの第一の思いでなければならない。

次に、人となった神の子イエス・キリストは、人間の救いを実現するために、すべての、そして一人ひとりの人間の心の戸をたたいておられる。人類の歴史の初めから終わりまでのすべての人間が救いに呼ばれているからである。そのために、キリストは教会を建ててこれを世に派遣し、「全世界に行き、すべての者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16,15)と命じられた。だから教会は今も福音を、すなわち主の言葉をあらゆる方法で宣べ伝えており、多くの人が、言葉で、書物で、各種メディアでキリストの言葉を聞いている。要は、人がキリストの言葉を聞いて心を開いてキリストを迎え入れるかどうかである。「もし、誰かがわたしの声を聞いて戸を開くならば、わたしは彼のもとに入って食事をともにし、その人もまたわたしとともに食事をする」(黙示録3,20)ことになる。

今年もクリスマスには大勢の人が洗礼を受け、キリストと聖霊を迎え入れて神の子となり、ミサにあずかって聖体を拝領するであろう。このみ言葉と聖体の食卓は、黙示録が「子羊の婚姻の晩餐」(黙示録19,9)と呼ぶ、神の子らの永遠の祝宴の前味である。この機会に、われわれキリスト者もあらためて心を開き(悔い改めて)キリストを迎え入れなければならない。

なお、教会の福音宣教の言葉に接することのできない人々については、第2バチカン公会議の次の言葉を想起しておこう。「このこと(キリストによる救い)は、キリスト信者についてばかりでなく、心の中に恩恵が見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。実際、キリストはすべての人のために死なれたのであり、人間の究極的召命は実際にはただ一つ、すなわち神的なものでるから、聖霊は神のみが知りたもう方法によって、すべての人に復活秘儀(キリストとの出会い)にあずかる可能性を提供されることをわれわれは信じなければならない」(現代世界憲章22)。そこでも、救いのカギは人間が神の言葉を聞いて心の戸を開くか否かである。
 
 

Grazie Jolly

 投稿者:Marco  投稿日:2011年 5月29日(日)19時17分25秒
  イエス様のことを愛される皆様へ、
「人々から尊敬されていなくても、安心していなさい。
すくなくとも、その時あなたはだまされてはいないからです。」聖 フランシスコ・サレシオ

木々の若葉が萌え立ち、葉桜の色も日々濃くなっていくころ、そこはかとない暑さが感じられる。それを「薄暑」(はくしょ)といいます。この時期になると衣変えもおおかた整い、すっきりとした軽装となり、身も心も軽やかに野や山へくり出す。また颯爽(さっそう)として賑わう街の人ともなります。夕暮れの散歩路は汗ばむほどではないが、吹きくる風の涼しさが嬉しい薄暑のころです。
キリスト信者は、単独で自分の信仰を守って生きることはしないものです。イエス様に従う者たちは、共同体の中で祈り活動し、信仰を守り信仰を生かすことになります。なぜならイエス様自身が、ご自分のそのような弟子のあり様が欲しかったからです。自分の愛する共同体の中に、キリスト信者が神様の欠かせない愛を受けて、経験し、神様の愛を生かし、神様の愛に応えることが出来るためです。キリスト信者はルールを守る、知識的な概念を詰め込むよりも、自分の心の中でイエス様から受けけた暖かい愛を生かし、その愛で神様の愛に応えて、自分の周囲に神様の姿を示してくださる姉妹、兄弟を愛します。助け合って支え合う、一緒に喜び、一緒に悲しむことはイエス様の共同体の欠かせない素晴らしい特徴です。
ヨハネによる福音書 14・15-21
復活節の第六主日の福音書は、もう間近になった大きな祝い、主の昇天の主日と聖霊降臨祭、三位一体の主日、主の聖体の主日のため心の準備をしてくれています。イエス様の話しに、強調された言葉の一つがあります、それは「愛」のことです。普遍的に神様に愛される私たちが、どのようにその愛に応えることが出来るのか、キリスト信者にとって基本的な思いだと思います。イエス様ご自身が次のような行いを勧めてくださいます。「私を愛しているならば、わたしの掟を守る」確かに掟というのは日本の字で表すように厳しいものです。しかし聖書の中では、その言葉のとりかたは少し違います。旧約聖書によると、十戒、そしてそれぞれの神様が教えてくれた掟は、神様との愛の約束のしるしとして扱われています。イスラエル人たちは、神様の愛に応えるために、神様の掟を約束として厳しく守るように決めていました。ヨハネ福音紀者は、掟と言う単語をイエス様の言葉として示しています。だからイエス様の愛に応えるために、愛された人はまず、イエス様の言葉を聞いて受け入れます。そしてその言葉を大切にし、その通りに生かすことです。その言葉を大切にすることによって、私たちはイエス様の愛に応えることが出来ます。イエス様を愛する人にイエス様は大きな愛情の中で、ご自分の姿を現されます。実はイエス様の言葉の深さを理解させるのは、イエス様から送られた聖霊です。その霊は私たちと一緒にずっとおられて、犯罪人を守る弁護士のように、私たちを保護されています。そしてヨハネの福音書によると、私たちの耳に不思議に聞こえて、心にしみ込むイエス様の表現がもう一つがあります。それは「父の内にいること」「イエス様が私たちの内にいて」「私たちがイエス様の内にいます。」というような言葉です。これは愛の用語としてだけで理解できます。この「内」と言う単語はイエス様ご自身の愛を示しながら、ご自分の思いを全て私たちに示すことです。嫁に行く人の場合、00家に入ると、それからその嫁にとって自分の家族、自分の思い、自分の理想は愛の内に入った家庭が全てになります。イエス様の表現は同じようにとらえられるべきです。イエス様が愛の用語を使いながら、どのように私たちの人生の内に生きておられるか、またどのように私たちがその愛に応えるべきかが、優しく語られています。                             モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞)より一部
 

(無題)

 投稿者:Marco  投稿日:2011年 1月13日(木)02時47分39秒
 
(無題)お絵かき91877
 

Grazie P.Elia 2aAvvento

 投稿者:Marco  投稿日:2010年12月 4日(土)22時30分19秒
  SECONDA AVVENTO, A4

Is 11,1-10;  Sal 71; Rm 15,4-9;  Mt 3,1-12



            Il grido del Battista risuona forte lungo tutto l’Avvento: “Convertitevi ... Fate un frutto degno della conversione”. A differenza di Luca, che colloca gli eventi nella storia pagana, il 15° anno del regno di Tiberio, cioè l’anno 28/29 d. C., Matteo si premura invece di coglierne il significato nella storia sacra e usa l’espressione ‘in quei giorni’, che nel linguaggio dell’Antico Testamento non si riferisce al passato ma al futuro, vale a dire: siamo davanti agli ultimi tempi! In effetti, il Battista è narrato in funzione di testimonianza per ‘colui che viene dopo’, ‘il più grande’ e il racconto punta su Gesù, il Messia, di cui il Battista indicherà la presenza nel mondo. Il particolare che rivela la visione dell’evangelista è dato dal fatto che qui Matteo presenta la predicazione del Battista per il battesimo, semplicemente, senza aggiungere ‘per la remissione dei peccati’, espressione che invece riporterà nelle parole di Gesù all’istituzione dell’eucaristia in 26,28. Il Battista conferisce un battesimo per la conversione, mentre Gesù solo realizzerà la promessa della remissione dei peccati.

            La liturgia si premura di illustrare appunto il mistero della conversione, che si risolve nel godere la grazia tipica del Messia, cioè quella di gustare il regno di Dio ormai venuto. In questo caso, conversione non indica tanto cambiamento di mentalità, ma ritorno incondizionato al Dio dell’alleanza, che cancella i peccati e introduce nella comunione di vita con lui.

            Lo annuncia splendidamente il brano di Isaia con la visione di una pacificazione universale e con la promessa: “Non agiranno più iniquamente ... perché la conoscenza del Signore riempirà la terra come le acque ricoprono il mare” (Is 11,9). Il salmo responsoriale 71 lo conferma e descrive la giustizia di Dio operante tra gli uomini tanto che tutti benediranno il Signore perché la sua gloria riempie la terra. Quando il profeta Geremia descriverà il compimento della nuova alleanza, non farà che indicare la stessa cosa: “Allora io sarò il loro Dio ed essi saranno il mio popolo. Non dovranno più istruirsi l’un l’altro, dicendo: “Conoscete il Signore”, perché tutti mi conosceranno, dal più piccolo al più grande ? oracolo del Signore ?, poiché io perdonerò la loro iniquità e non ricorderò più il loro peccato” (Ger 31,33-34). Tutti mi conosceranno, perché tutti potranno accogliere il perdono del Signore e si ritroveranno uniti nella misericordia del Signore che tutti accomuna.

            La promessa di bene per gli uomini da parte di Dio si realizza così. La conversione procede dal fatto che il nostro cuore custodisce, anche se come sepolta, la coscienza di un'alleanza che gli è stata offerta da Dio e che Lui non si è mai rimangiata, la coscienza di una felicità possibile, forse persa, ma sempre desiderabile e, nella speranza, ancora vivibile. Non è però scontata e per questo la chiesa fa pregare: “Dio grande e misericordioso, prepara con la tua potenza il nostro cuore a incontrare il Cristo che viene” (colletta del mercoledì della prima settimana di avvento). Ma fondamentalmente la conversione è un credere ancora possibile per il nostro cuore la felicità promessa da Dio, che in Gesù si fa accessibile e godibile.

            E la felicità, di cui il cuore custodisce l'anelito, non può provenire che da quella nuova umanità fatta germogliare da Gesù in giustizia-mitezza-pace, di cui parla la colletta di oggi: “Dio dei viventi, suscita in noi il desiderio di una vera conversione, perché rinnovati dal tuo Santo Spirito sappiamo attuare in ogni rapporto umano la giustizia, la mitezza e la pace, che l'incarnazione del tuo Verbo ha fatto germogliare sulla nostra terra”. Giustizia nel senso di tornare a sentirci non solo oggetto di amore, ma soggetti degni di amore; mitezza nel senso di non lasciarsi più deviare da nulla rispetto allo scopo da perseguire, che è la fedeltà al bene comunque; pace nel senso di quel regno di Dio giunto a noi, cercato sopra ogni cosa, che ci ricolloca nella giustizia e ci induce alla mitezza.

            Mi raccontava una sorella in missione in Cameroun la meraviglia provata davanti alle parole di un anziano abbandonato che era andata a visitare e curare nella sua capanna: ‘oggi Dio è venuto a visitarmi’. È la sensazione della vicinanza del regno di Dio a consolare i cuori. Così, l’invito di Giovanni Battista non si limita a un sentimento interiore: ‘convertitevi’, ma allude al rinnovamento dell’agire: ‘fate un frutto degno della conversione’. Come a dire: ritornate a fidarvi del vostro Dio in modo da produrre un sentire e un agire che diano testimonianza della verità della presenza di Dio in voi.

            Il cammino di conversione, che oscilla continuamente tra le due sponde della pazienza e della consolazione, tende proprio a ridarci un nuovo modo di percepirci e di percepire, come proclama Paolo nella lettera ai Romani: "...vi conceda di avere gli uni verso gli altri gli stessi sentimenti, sull’esempio di Cristo Gesù". Sono i sentimenti collegati a giustizia-mitezza-pace, che, se da una parte esprimono l'esperienza dell'incontro col Signore, dall'altra, strutturano lo spazio interiore per l'incontro con gli uomini. Sarà il dono per l’umanità del Natale di Gesù.



 

年間第18主日

 投稿者:Marco  投稿日:2010年 7月31日(土)23時29分56秒
  年間第18主日(C年)
2010年8月1日(C年)-神と出会うために-
作成者 Fr.YASU ― 投稿日 2010年07月31日 20時10分 最終変更日時 2010年07月31日 20時16分

C年司祭
年間第18主日(C年)(ルカ12.13~21)

 「金の切れ目は縁の切れ目」とよく言われますが、お金はいつの時代も、人を変える力を持っています。富や財産への保有欲は、どのような人の中にもあります。中には、手段を選ばない獲得の仕方をする人もでてきます。それだけ人間にとっては魅力あるものです。財産、蓄えがないということは、わたしたちに生活の不安を感じさせます。惨めな思いを抱いてしまいます。生きることへの意欲を失くさせます。ところが、富に恵まれますと、気持ちの上で余裕ができ、自分の望みがすべてかなえられるようになってきます。そして、生きることへの意欲も増大します。それほどにお金、富の力には大きいものがあります。

 他方では、遺産相続の問題で醜い争いがくりひろげられることにもなります。しかし、人間の持つもろさ、弱さ、有限性は貧富の差に影響されるものではありません。すべての人につきまとうものです。そして、お金、富でどうにかなるものでもありません。中でも、死は絶対です。例外なくすべての人に及びます。財産を持って神の前に出るのではなく、手ぶらです。富や財産は何の役にも立ちません。

 こうした現実をイエスさまは今日の福音の中で語ります。つまり、財産を持つことはいいとしても、そのことだけにきゅうきゅうとする人は「愚か者」であると言われます。いつの日か神と出会うために、今の生活を利用し、準備しなさい、と言われます。こうした自覚を持って「今」を生きることこそ、イエスさまが望まれる真の生き方、「賢者」です。

 ということは分かっていても、いつの間にか気付かないうちに、ずるずるとあらぬ方向に向かっている自分を発見することがあります。その時が、意識的に神に向かう時です。それは、感謝することから始まります。しかも、現実の自分の生きる環境から出てくる祈りでありたいですね。「足が地についた」祈りを大事にしたいものです。そこにこそ、信仰者としてのわたしの成長があります。
年間第18主日 年間第18主日
 

年間第11主日

 投稿者:Marco  投稿日:2010年 6月11日(金)01時42分54秒
  年間第11主日(C年)(ルカ7.36~8.3)

 異常気象のせいでしょうか、今年は梅雨入りが遅れそうであるという報道がありました。ということは、梅雨の期間が短いということでしょうか。それで、助かる人、困る人が出てきます。この世では、何が正常で、何が異常なのか、その判断の絶対的な根拠はありません。経験上、普通のことが普通でない時に「異常」という言葉を使います。

 同じように、何が正しくて、何が正しくないか、「絶対的な」基準はないと言えます。特に、人間の生きざまは外に現れるところで判断できないことがたくさんあるからです。心の中は外的な基準(規則等)で判断し、裁くことは難しいでしょう。規則の限界があります。肝心なのは、その人が生きてきた歴史、環境がその人の「人となり」を構成しているということです。

 今日の福音に登場する二人の場合は、まさにそのようです。一人はファリサイ派の名士。一人は罪の女です。

 ファリサイ派のシモンは、社会的にも宗教的にも模範生でした。勉学にも励み、教養も身につけていました。その分、そうでない人々を「見下して」いたのかもしれません。そういうエリート気分が細やかな配慮を必要とするとき、邪魔してしまいます。そのことをイエスさまは指摘なさいます。人を招待しておいて、「あなたはわたしの足に水を注いでくれなかった」のです。このようなことを指摘する人もそれまでいなかったのでしょう。それが、ファリサイ派の彼が生きてきた歴史、環境でした。

 他方で、罪の女は、良心の呵責を感じながらも、汚れきった生活を強いられていたのでしょうか。もだえ苦しみながら、安心できる日々ではなかったのではないでしょうか。ファリサイ派の彼との生きざまの違いを感じつつも、イエスさまの前に進み出ます。自分のすべてをさらけ出してイエスさまのもとに飛び込んでいきます。招待されていないのに、・・・。そして、涙ながらに訴えます。これでイエスさまにとっては十分でした。「彼女は多く愛した」という言葉を、イエスさまをして言わしめます。その言葉に隠されているのは、彼女はすべてを包み隠さずイエスさまに見せたということです。このことをイエスさまもしっかりと受け止められたのです。これこそ、シモンに欠けていたことです。

 現代でも、両者のタイプの方はいます。現代流にいえば、「幼児体験」はその人のその後の生き方に大きな影響を与えます。できる限りで、いい影響を与えるようなかかわりと環境を提供し、見える部分だけでなく、見えない部分での影響を与えあう体験を増やしたいですね。そのためには、自分のことだけでなく、相手のことを意識する訓練を積み重ねることではないでしょうか。相手に自分のことをさらけ出しても、大丈夫な信頼関係をこれからさらに、大切にしたいものです。
 

Eucarestia

 投稿者:Marco  投稿日:2010年 6月 5日(土)03時42分12秒
  キリストの聖体(C年)(ルカ9.11b~17)

 いきなりですが、あるかたが書かれた本の一節からの引用で今日の話を始めてみたいと思います。ちょっと長くなりますが、・・・。『わたしたちは生活の中で、よく「信じる」という言葉を口にします。よく考えますと、わたしたちの朝から晩までの生活は、「信じる」ことなしに成り立っていないことに気づきます。人とのお付き合い、特に夫婦生活では「信じる」ことは大きな要素になっています。

 わたしたちは誰でも人の心の中をじかに見ることはできません。まったく無防備で寝ていても、他の人から心の中をのぞき込まれることはありません。わたしたちが偉そうなことを言っていられるのも、シラを切っていられるのもみんなこのおかげです。

 しかし、わたしたちの心の中をお互いにまったく知ることができなかったら、わたしたちの集まりは石ころの集積と同じことになります。が、現実生活はそうではなく、十分、心を通じ合って生活しています。心の中が見えないので、言葉とか表情とか、雰囲気とか合図、書きものなどで見えない心の中を表現しています。とは言うものの、わたしたちはいつでもどこでも、そのまま正直に表しているとは限りません。相手によって、事情によって、その表し方はさまざまです。

 「信」の字はにんべん(心)と言(外に表したもの)が一つになってできている漢字です。この人は真実を言う人であると推測して頼ることを「信頼」といい、信じて用いることを「信用」というように、神は真実なかた、誤りもうそもあり得ないかたと推測して仰ぐことを「信仰」といいます。わたしたちの生活、とくに人とのお付き合いはすべて「信」を前提にし、出発点にしています。心の中だけでなく、直接に確認できないものはすべて、「信」に寄りかかっている生活です』(「結婚する二人へ」粟本昭夫著)。

 今日は聖体の祝日です。この祝日そのものは、人間とイエスさまの外には見えない心の中身が、具体的な形で表に出ている祝日です。人間の中にあるごまかし、自己弁解と正当化、さらには利害関係からくるむごい仕打ち。その結果、十字架の刑に処せられる破目に陥ります。それでも、これらに対して、イエスさまは人間を憎むこともせず、むしろ、その人たちのためにゆるしを願います。ご自分を苦しめた人びとの救いを願います。

 聖体の秘跡が定められたときは、人間の悪と罪が最高に、さらに具体的な形となって現れたときであり、イエスさまの優しさ、愛がその極みに達した時でもありました。しかも、そのイエスさまの愛の「形見」となったのが、聖体の秘跡です。今、聖体をいただく時、イエスさまの愛の極みを感じ、感謝する時です。また、人間の醜さを意識し、「信じる」ことの確かさと、ありがたさを喜ぶ時です。

 心の中にあるものと表に出てくるものが、誤りでなく、真実であるように努める決意を新たにしたいものです。イエスさまの前で「信じる」ことが大前提になっているかかわりでありますように。「信じる」ことは、何も特別なことではなくなります。
 

「密航」

 投稿者:Marco  投稿日:2010年 5月28日(金)21時22分2秒
  待望の新刊書

「密航」刺激的なタイトルの本が届けられた。副題には「最後の伴天連シドッティ」とある。

今年の鹿児島教区司祭大会にきていただいてお話しを伺った時のタイトルはたしか「最後の伴天連」だったと思う。ともあれ、長いこと待たれていた本だけに嬉しい。早速ページを捲ってみて気がついたことがある。全21章のタイトルが全て二文字。発端・旅立・呂宋・航海・上陸・遭遇・恋泊・拘留・護送・長崎などなど。シドッチ神父の出来事に少し通じている人にはこれらの二文字で内容についておおよその見当がつく。しかし、はじめての人にとってはこれら二文字の向こうに秘められたドラマに思いを馳せながら想像をたくましくするに違いない。

しかも、プロローグとエピローグのタイトルはいずれも屋久島。三文字の「屋久島」に挟まれた二文字のドラマ。著者が愛してやまない屋久島はまさに全てを受容する悠久の島である。そんな屋久島に1708年一人の宣教師が上陸した。それが日本の夜明けの第一頁を飾ることになるとは誰が想像できただろうか。

作家の遠藤周作1や井上ひさしらが「顕彰すべきでは」と役場に手紙を送ったのはボクが種子島にいた時だ。あれから、27年、役場が主催する11月23日の「シドッチ神父上陸記念碑」前で執り行われる「シドッチ祭」は一度も途絶えたことがない。その日のために鹿児島からは巡礼団が組織されている。

世界遺産の島として多くの観光客を惹きつけているが、「密航」によって多くの人がシドッチ神父とシドッチ祭に引きつけられることを願ってやまない。
 

Pentecoste

 投稿者:Marco  投稿日:2010年 5月27日(木)22時05分12秒
  聖霊降臨(C年)
2010年5月23日(C年)-わたしたちを変える聖なる霊-
作成者 Fr.YASU ― 投稿日 2010年05月22日 17時55分 最終変更日時 2010年05月22日 18時42分

C年司祭
聖霊降臨(C年)(ヨハネ14.15~16、23b~26)

 今日は聖霊降臨の大祝日です。とはいいましても、「聖霊」は、わたしたちとどのようなかかわりがあるのか、いまいち実感がわかないと思われる方が多いのではないでしょうか。わたし自身も含めて、聖霊の存在、働きを実感できる日々を送れますように、今日の大祝日に恵みと力を願いたいものです。

 そのための大きなヒントが、今日の答唱詩編の中にあるようです。「あなたがいぶきを取り去られると、死が訪れてちりにもどる。あなたは霊をおくってすべてを造り、地上を新たにしてくださる」と。

 この詩編の中には、地上を生かすも殺すも、聖なる霊によるという考え方があります。わたしたちは「今」生きています。明らかに聖なる霊がかかわっているからです。天地創造、つまり、存在する一切のものは、その根拠が神にあるということです。しかも、聖なる霊はよりよい存在を与えようと、積極的に働きかけます。秩序ある調和に満ちた、平和な世界。

 聖なる霊と対照的なものが「罪」です。秩序ある調和に満ちた世を、人を破壊していくのです。罪とは破壊する力です。時が進むにしたがって、人間の罪が、よりよく生きることへの意欲を失くさせ、神の霊が、人間からとりさられてしまうのです。「荒廃」の極みに達した時、また、そのような自覚が深まって初めて、霊による救いを求める祈り、願いが出てきます。それでも、神はその叫びに耳を傾け、人間を追い詰めようとなさいません。どこまでもやさしく、配慮深く、希望を与え続けるのです。この霊が、廃墟と化した(?)わたしたち人間を変えていくのです。

 聖霊が使徒たちにくだりました。そして、教会が誕生しました。使徒たちは祈って、この日を待ちました。そして、雄弁にもすべてを語り始めたのです。聖霊がすべてを教えてくださったのです。

 わたしたちも「祈り続ける」ことで、聖なる霊を実感できるようになります。生きることと信仰することは別のことではなく、後者が前者を包含しているのです。しかも、「わたし」という一人の中で保たれ、よりよく生きることへと発展していきます。信仰することがつらくなった時こそ、聖なる霊は働いているといえます。そのような体験は大なり小なり多くの方がお持ちではないかと思います。

 「続ける」ことが、大事です。それを意識できたとき、聖なる霊を実感できるようになりますように。「主よ、地の面を新たにしてください」!
 

Omaggio alla mamma scrofa

 投稿者:Marco  投稿日:2010年 5月22日(土)14時05分47秒
  「ごめんね」頭さすり薬剤注射 豚7万4000頭処分 宮崎・川南町ルポ
2010年5月17日 01:23 カテゴリー:社会 九州 > 宮崎
家畜の埋設処分をするため掘られた穴に石灰を入れる重機(宮崎県提供)

 宮崎県で猛威を振るう家畜伝染病「口蹄疫(こうていえき)」。感染、または感染が疑われる施設は100カ所を超え、殺処分の対象は牛と豚で計約8万2千頭に及ぶ。手塩にかけた家畜を目の前で処分し、忍び寄るウイルスの影におびえる‐。被害が集中する川南町は、豚だけで約7万4千頭が処分対象となり、農家の間に絶望的な空気も広がっている。胸を裂く叫びを聞いた。

   ■   ■

 子豚が吸い付くと、周りの水泡がつぶれて乳房が黒く染まる。痛いはずだが、それでも母豚は、つめがはがれた足で立とうとし、乳を飲ませようとする‐。

 「もう、こんなつらい光景は見たくない」。養豚場経営者(63)は、感染した母豚の様子がまぶたに焼きついている。

 最初は小さな異変だった。鼻と足から血を流している母豚2頭を見つけ、家畜保健衛生所に連絡した。そこから爆発的な速さで広がった。抵抗力が弱い授乳中の子豚は、前日の元気がうそのように翌朝はあちこちに転がっていた。

 数日後に殺処分される豚たちに手渡しでえさをやり、腹いっぱい食べさせた。処分が始まるまでの8日間をとても長く感じた。約700頭がいた豚舎は今、骨組みだけが残る。

 「疲れた。今後のことも考えんといかんが、今は希望が持てない」

   ■   ■

 「畜産は人の命をつなぐために動物の命を奪う仕事。でもこんな形はいやだ」。別の養豚場経営者(61)は、数日前に約600頭を処分した。

 殺処分は鎮静剤、薬剤の順番で注射する。若くて経験の浅い獣医師は、針が血管にうまく入らず「ごめんね、ごめんね」と豚の頭をさすりながら2本目を打った。眠るようにしゃがみ込み、息絶える豚を見ていて、涙が止まらなかった。

 「これでもうウイルスを出す心配はない。迷惑を掛けんですむ」。すべてが終わり、悲しみと奇妙な安堵(あんど)を感じた。埋めた場所は自宅から歩ける距離。しばらくは毎日、お参りに行くという。

   ■    ■

 「きょうも何とか生き延びたか」。豚約7千頭を飼育する遠藤威宣さん(56)は毎朝の観察結果を聞き、こんな思いを繰り返す。「あの農場が検査に出したそうだ」。感染疑いを調べる遺伝子検査の情報が入るたびに身を削られるようだ。

 遠藤さんは町内のJA尾鈴(おすず)の養豚部会長。世話役として動き回る立場上、ウイルスを持ち帰る危険があり、自分は農場に立ち入れない。子豚は乳を飲んでいるか、熱はないか…。観察を任せた長男の太郎さん(33)が日ごとに憔悴(しょうすい)していくのが分かる。もし感染した場合に、従業員8人をどう処遇するかも悩む。

 遠藤さんは、振り絞るように言った。「今一番大切なのは農家を安心させること。私たちは『早く終息させるためにこうする』という国や県の方針を聞きたいんだ」

=2010/05 /17付 西日本新聞朝刊=
 

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